東日本大震災を〈考える〉ナースの会

震災について〈考える〉場をつくりました。 仙台で/仙台から、始めます。

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第4回目の〈考える〉会が終了しました  

ナースの会も4回目を迎えました。
今回は、てつがくカフェ@せんだいとの共催ということもあり、看護職以外の方にもお集まりいただきました。参加者は14名で、半数は看護職の方々です。今回は初めて学生さんの参加もありました。

さて、本日のテーマは、「専門職倫理を考える―“患者のために”は、どこまで通用するか?」です。

このテーマは、てつがくカフェ@せんだいや、@ふくしまでも、公/私の問題として何度か取り上げてきたテーマです。ただ、〈公〉の部分がその専門性により社会的責務を負っている医療専門職となるとどうなのだろう。また、同じ医療専門職はこの問題に対してどう考えるのだろうかという思いがあり、本会でも取り上げようと以前から考えていました。

福島の相双地区から来られたある参加者は、原発事故当時、情報が錯綜する中で内心恐怖を感じながらも目の前にいる人を放置しておけず、その場にとどまり支援を継続したといいます。そして、福島を去った同僚に対し不満を抱きつつ「自分は放射能を浴びてもしょうがない」と考えていたといいます。しかし、今になって考えてみると、危機的状況下において、他者を助けるためにその場にとどまることが果たして正しい選択だったのか、疑問を抱くようになったといいます。

これに対して、看護職以外の方から「自分は放射能を浴びてもしょうがない」という突き抜けた言い方は怖いのではないか。そこまでする仕事というものが果たしてあるのだろうかという疑問が投げかけられました。そして、看護師の仕事というのは、他者を助けるべき職業であるというイメージがまとわりついているが故に、献身や自らを差し出すといった自己犠牲的な行為も有り得るとし、結果的に看護師以上のものを求められているのではないか。そして、ここを明らかにすることで、福島を去った看護師が抱いている〈負い目〉を解くことが出来るのではないかといいます。

確かに、看護師という仕事は、利他主義的で自己犠牲をも惜しまず、他者へ献身的な手を差し伸べるようなイメージがあるのかもしれません。看護師の専門職としての第一義的な責任は看護を必要とする人々に対して存在している以上、自己を優先することは許し難いことなのかもしれません。しかし、仕事以外の場面でも常にそう振る舞うことが求められるとしたらかなり苦しいのではないかと思います。

では、看護職自身は日常において〈看護師としての私〉と、〈個人としての私〉を区別しているのでしょうか。これに対してある看護師は、看護師として縛られて生きているのではなく、たまたま看護師だっただけであるといいます。また、目の前に困っている人がいれば自ずと手を差し出すものであり、看護師であることを意識して行動するのではないと。つまり、看護師(仕事)としての私と個人としての私に明確な境界がない(もしくは意識していない)ようです。

今回はファシリテーターの力不足で議論が拡散してしまい(そのため記録もうまくまとめられず)、本来のテーマについて議論を掘り下げることが出来ませんでしたが、看護師という仕事にまとわりつくものについて考えることにより、福島を離れた看護師が抱く〈負い目〉がどこからくるのか、その糸口を見出せたような気がしております。今後も、引き続き同じテーマについて〈考える〉場を設けていく予定です。皆様、ぜひご参加ください。お待ちしております。


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Posted on 2012/06/05 Tue. 15:51 [edit]

category: ◆ これまでの活動

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